本橋成一「在り処」写真展/田川市美術館
誰もおらんでよかった
まさか美術館で
涙が止まらんごとなるとは思わんやった
田川市美術館で現在開催中の写真展、本橋成一氏の 「在り処」を観に行った。
偉大な先達カメラマンの写真を、駆け出しのカメラマンが観せてもらう、学ばせてもらう、そのつもりやった。
会場に展示されている主だった写真は、1965年(昭和40年)ごろの筑豊や北海道の炭鉱の写真。
私や同級生が生まれたころの写真。
当時の人々と、生活と仕事が、写真の中にあった。
「筑豊地方・福岡 1965年」とだけ書かれたぼた山の写真の前で、私は固まった。
時間が逆戻りした。
「これは石炭?」
「違う、それはボタ」
5歳の私には、石炭とボタの違いが、なかなかわからんやった
祖母に連れられて、第二豊州と呼ばれよった炭坑のぼた山に登って、二人で石炭を拾ったあの日
祖母はぼた山に捨てられたボタに混じった石炭を拾って持ち帰り、たぶん、家で風呂の焚き付けにしよったんやろうと思う
中津原小学校に入学してからは、両親が共働きで自宅に帰っても誰もいないため、私は小学校近くの祖父母の家に帰りよった
帰り道は第二豊州の下を通って、右手にぼた山を、左手には真っ黒な泥の池を毎日眺めた
第二豊州には炭住があった
そこに住む子たちと仲良くなった
学校帰りに寄り道して遊んで、祖母から何度も叱られた
炭住は狭いで、隣どうしがつながった長屋を見たのは初めてやった
壁一つ隔てただけやきか、みんな家族みたいやった
仲がよかった
よそからきた私を、大人の人たちは自分ちの子みたいに可愛がってくれた
あるとき、せっかく仲良くなった友達が次々に転校していった
みんな、第二豊州の炭住に住む友達やった
昭和47年に第二豊州炭鉱が閉山
たぶん、転校した友達はみんな別の炭鉱に引っ越したんやろうと、今思う
あのときはまだ炭坑があって
そこで暮らしよった人たちとその生活を、私は見とった、覚えとった
黒く光る石炭も、ぼた山も、埃っぽい炭住も
この写真に写っとうのは、
あのとき一緒に遊んだ友達やし、お兄ちゃんやし、お姉ちゃん
あの時代に、たしかにおったんよ
私は知っとう
下を向かず、まっすぐな笑顔で、精いっぱい生きとった彼らを、その在り処を。
駆け出しカメラマンのつもりやったんに、小学校一年生に戻った私は涙が止まりませんでした。
素晴らしい写真展でした。
本橋成一 在り処
田川市美術館
平成30年6月16日~7月22日
パンフレット